きっと誰の胸にも大切な場所がある。誰にも​知られたくない、ただいまとちいさくつぶやく場所。こころの小部屋に風景を染み込ませて、金平糖を舐めるようにたまにとりだしてはうっとりとする。
 ​別の​扉​​をあけると、まっしろな空白がある。​なに​もわからぬまま生きていくことがそら恐ろしくなる。しかし胸で波打つ浜から、きっとだいじょうぶ、と声がする。血をめぐらせる心臓のように、海がこころを駆けめぐっている。
​ 沖縄にいる頃は、実家から​車で10分もいけばどこまでもつづく水平線があった。学校がおわり、家に着くと仕事帰りのお母さんが大きなおにぎりを準備して、みんなで夕日を見に行った。どこまでも浜の匂いがした。あの潮風のにおいを表す言葉を知らない。いつでもあの風が吹いているような気持ちになったのは、都会へ出てから三年が経ってからだった。
 数年前、はじめて久高島に訪れた日のことはよく覚えている。いしき浜は透明な青を湛える浜だった。ひかりを反射させる水面や絹のような風がわたしをめがけて飛んできた。足に触れるあたたかな白砂もぬるい潮水も、おかえりと声を響かせた。緑の一本道を歩いて民宿に帰り、その数日後に飛行機で大阪へ戻ってからも波の音が鳴りやまなかった。気が付かなかっただけで実はずっとそばにいてくれた海と新しく出会い、大切なものがてのひらに戻ってきたような感覚があった。ふと、八木重吉の「こころ」という詩をおもいだす。

心よ
こころよ
では いっておいで
しかし
また もどっておいでね
やっぱり
ここが いいのだに
こころよ
では 行っておいで

 こころが、この場所を離れて駆けていく。追いつけないほど遠くから風を連れてくる。どこへ行くのかわからないまま、今日も潮風のにおいがする。

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