詩、とは誰かに見せるものではないとおもっていた。

 はじめて詩を書いたのは、たしか、中学校二年生のころだった。死ぬことがおそろしく、夜がおそろしく、その自分をはげますために、ルーズリーフに無造作に書かれた字をじっと見つめる夜があった。紙を見られるのが恥ずかしくて、たんすの奥の奥へしまっていた。
 今だってこわいことばかりだ。幽霊が恐い、死ぬのがこわい、どうなるかわからぬ明日がこわい。しかし、こわい、ということは、知らない、ということと似ている。幽霊を知らない、死を知らない、明日を知らない、あなたを知らない。裏を返すとそれらは、実は可能性と呼ばれる青白い空が広がっているようで。
 詩や文章のことも、わたしにはわからない。良い詩、良い文、という判断はつかない。ただこころがゆれるものたちがあることを知っている。

 大人になって、もういちど詩を書く、ということに出会ったのは、若松英輔さん講座だった。須賀敦子『ミラノ 霧と風景』をテキストに、コトバたちを、奥のほうから掬い、拾い上げる二時間があった。若松さんが須賀敦子の話をしている横で、わたしは沖縄や実家の母のことばかり考えていた。そのときに、ひとつ、詩のようなものができた。ひとり、家に帰って泣いた。
 そこから、ペンが動くときに詩のようなものを書くようになった。誰にも見せるつもりはなかった。これが詩なのかわからない。でも、たぶん詩なのだとおもう。

 小学生のころ、図書館で何度も何度も同じ本を借りて読んだ。何回読んでも世界は新しくて、手が紙に吸い付くように、ただ一心に読んだ。大人になる、ということは、たくさんのことを知って、いろんな話ができるようになって、スマートで足が長くて、そんなことだとおもっていたけれど、幼いころに見ていた世界は、とても大きくて、おなじものを見ることはできないけれど、二十六歳をすぎて、あのころのわたしを先生に、岐阜で暮らす日々がある。

 なぜてづくりで詩集を出したかったのか、わたしにはわからない。自分のためだけに書いたものを、活字にし、冊子にし、大切なあなたへ、たまたま手に取ってくれた顔も知らぬあなたへ、数年後の泣いているわたしへ、届いたらどんなにいいだろうと夢想した。誰にも求められていないかもしれない、という不安がある。なにもかもがはじめてで、それでも、これを一度かたちにすることが、どこかへ途方もないところへ歩いてゆけると確証なき声があった。

 ここへいながら、遠くへ行くことの、楽しさやおそろしさ。どこから飛んでくるのか知らぬ言葉たちが、あなたの海に届いたならば、詩の中にあなたの風が吹いたならば、なんだかとても嬉しいのです。

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てづくり詩集『ゆれる』に掲載する「はじめに」の文章です。

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